千葉支部

総会講演会

             総会講演会「秋瑾と下田歌子」を聞いて
                                      昭 23 専国 篠崎とく子

  日本が長い鎖国の眠りから覚めて、明治維新を迎えようとする頃、又、迎え終わった頃に日本と中国にそれぞれ有名な女性となる人が誕生した。一人が我が学園の創始者下田歌子、一人が中国淅江省の紹興という町で生まれた秋瑾という女性革命家である。この二人がいつしか東京で会うことになろうとは。
  以下、影山先生のお話に沿って説明します。
  下田歌子、幼名平尾鉐は 1854 年(嘉永 7 年) 8 月に岐阜県の武士の娘として生まれ、 1872 年(明治 5 年) 19 歳で宮中に召される。当時、宮中は貴族の娘が行くところだったが、和歌もたしなんで何かの折に「かまくらは花のふぶきにうづもれてうたたねさむし春の夜の月」という歌を詠んで、なみいる人を驚かせたとか。のちに昭憲皇太后より「うた」という名を賜ったという。 1879 年(明治 12 年) 5 月に下田猛雄と結婚。 11 月には宮中奉仕を辞めている。
1882 年(明治 15 年) 29 歳の時、下田学校を麹町区一番町四十二番地に設立、 6 月に下田学校を桃夭学校に改称している。 1884 年(明治 17 年) 5 月に下田猛雄が逝去、 7 月に宮内省御用掛となる。 1885 年(明治 18 年) 32 歳で華族女学校幹事兼教授となる。桃夭学校は閉鎖、翌年 1886 年(明治 19 年) 2 月華族女学校学監兼教授となり、 1893 年(明治 26 年) 9 月 40 歳の時、女子教育状況視察のため欧米各国へ出張している。日本では 1894 年(明治 27 年) 8 月、日清戦争が起こったのだがー 1895 年 4 月迄、 1895 年(明治 28 年) 5 月 42 歳の時に、ビクトリア女王( 1819 − 1901 、在位 1837 − 1901 )に拝謁している。同年 1895 年 8 月に帰朝、華族女学校学監兼教授に復職している。 1898 年(明治 31 年) 11 月 45 歳で帝国婦人協会を設立し、会長となる。 1899 年(明治 32 年) 5 月 46 歳の時に麹町元園町二丁目四番地に実践女学校、女子工芸学
校を創設し、校長となる。(これは、私なりに、学生時代各学校令ができた年と習った。)
1900 年(明治 33 年) 8 月 47 歳の時、日光にて孫文( 1866 − 1925 )中国の革命家と会う。革命を支援するようでもあり、又、一方で西太后に会おうともしたのである。
1901 年(明治 34 年)秋、清国女子留学生一名を実践に入学させ、このあたりから、清国留学生を受け入れるばかりでなく、日本女性河原操子を上海の務本女学校に派遣、その関係者の訪問を受けたりしている。
1903 年(明治 36 年) 5 月、 50 歳の時に実践女学校、豊 多摩郡渋谷村 字渋谷常磐松御料地に新校舎完成、開校式となっている。(以上は影山先生のご用意くださった下田歌子略年表によります)
  かたや、秋瑾は、生年がはっきりしないが、影山先生は、 1877 年説をとっておられます。明治維新が 1868 年だから明治 10 年に生まれていると思われます。 20 歳で結婚、 21 歳で男児出産、 25 歳で女児を出産している。彼女は、男女平等の主張が強く、又魯迅とは同郷であった。彼女が夫と子供達と北京にいた時、日本から服部宇之吉、繁子夫妻が京師大学(今の北京大学)の教員として東大から派遣されていて、秋瑾と繁子は気が合って付き合っていた。繁子は孔子の思想に傾倒し、秋瑾は米国へ行って法律の勉強をしたいと言っていたが、結局、米国をやめて繁子が日本へ帰る時、一緒に日本へ来ることにし、留学先も自分で実践女子大学(当時の実践女学校、速成師範科)と決めた。当時、男子は早稲田、女子は実践と大体決まっていたようで、秋瑾は、下田女史に紹介して下さいと繁子に頼んだりした。
1904 年(明治 37 年)秋瑾 28 歳の時、子供二人と夫を中国において日本に来た。実践に入りはするが、不満分子で、殊に食事、金銭に関して満足しなかった。服部繁子から秋瑾は過激思想の持ち主だと聞いても、下田女史は意に介さず、そういう人をこそ教育してみたいと言ったそうである。
1904 年 11 月退学し、一旦上海へ行って革命運動をし、翌年又来日し再入学をする。(この頃は日露戦争が始まっていた筈である。)
1905 年 11 月、日本政府により「清国留学生取締規則」が公布され、彼女は「留学生は一斉帰国すべきだ」と短剣を抜いて友達を脅したそうである。彼女は一斉帰国組に入って帰国したが、魯迅は日本に残った。
秋瑾は故郷へ帰って革命準備的な学校(大通学堂)を建てるのだが、半ばにして清朝政府の内偵を受けて逮捕され、即座に死刑となった。 1907 年 7 月のことである。
  最期に言い残すことはないかと言われ、「秋雨秋風愁殺人」(殺は徹底的という意味で、徹底的に人を愁えさせるという意)と書いたそうである。
武田泰淳氏の著者、又魯迅が「薬」という著書に彼女のことを書いている由。
  坂寄美都子は下田女史の弟子で留学生寮の舎監をしていて、秋瑾に詳しい人であったが下田女史は大きく心して扱えよと言ったそうである。
  今でも、中国に行くと秋瑾の故居があり(紹興)、杭州には彼女の立像があるそうである。誰も実践の名前は知らないが、秋瑾が留学した学校というと、皆わかって、態度が変わるそうである。三十歳ちょっとの若さで刑場の露と消えたのだが、下田先生はどんな思いであったろうか。米国にも行っていたら、ひょっとして第二次対戦のあとまでも、どこかにいて何らかの形で活躍していたのではないだろうか。しかし、余りに直情径行すぎて長生はできなかっただろうか。
  そして下田歌子の懐の深さ、清濁併せ呑む気概に感嘆せざるを得ない。今にして思えば、日本がこれからどのようにして大きくなって行くか、明治の頃は、日本にとって一番よい時代だったかも知れない。
  これは全くの私見であるが、今の日本をいかにして立て直すか、たてるか、大きな課題である。又お隣の国、中国、韓国ともいかにして共存して行くか、考えなければならないと思う。女だからこそ、育児、教育にかかわる度合いは大きいと思う。それを心して、明治の先人に思いを馳せ、考え直すべき時だと思う。 

               影山先生の講演を聞いて
                                                昭 32 大英  湊  慶子

  総会案内を頂いた時 , 講演内容にある秋瑾の名を私は知りませんでした。実践と関わりのあった人という安易な考えで出席し、影山教授の当時の時代背景を加えての講演に一時間半メモをとりながら久しぶりに勉強させていただきました。その中にでてくる魯迅の話には特に興味を持ちました。  
十数年前中国を旅した時上海で魯迅の墓を見てきました。単に文学者としか捉えていなかったので、碑が毛沢東 , 周恩来の心入れで建てられているのと , 魯迅公園の宏大さに驚きました。あまりにも神格化され過ぎているように感じられました。筋書きでは若き日国を憂い日本に留学し、短期間ではありましたが医学を学び、良き師に巡り会い , テロに走る事無く書く事によって中国人の啓蒙、意識改革した。その功績が認められた為なそうです。  
何故魯迅が気候厳しい東北の地を選び、短期間で方向転換したのか。
  私の父も同じ頃仙台医專で学びました。「幻灯事件」を契機に考えを変えたとありますが , それは文章の上の言い訳に過ぎず、やはり国を愛する血気盛んな日本の若者と衝突して出て行ったと推察致します。古くから仙台には拘置所があり解剖には事欠かなかったようで、当時の医学生は真剣に大変な勉強をしていたようです。革命思想をもった異国民に違和感を持つのはいつの時代でもあり得る事です。明治時代の東北は非常に貧しいでしたが、杜の都仙台は学問するにはいい環境にあったようです。遊ぶ場所も無く、学生は向学心に燃え , 師を仰ぎ蛍雪の言葉そのままに勉学に励んだと折に触れ父親から聞きました。魯迅が仙台を選んだ理由もその一つなのかもしれません。秋瑾と同郷で面識があり写真の短刀を調達した間柄であり乍ら、何故過激な思想に走る彼女を思い留まらせる事が出来なかったのか。三十一歳の若さで処刑される留学生を受け入れざるを得なかった学祖下田歌子先生の胸中を思うと複雑な物があります。
  今回影山教授の講演で、対華二十一ケ条要求や五・四運動などを知るにつけ、昨今のギクシャクした日中関係の原点がその当時からすでに芽生えていた事を勉強できました。中国に限らず五カ国から留学生を受け入れることになった本校が、後輩と共に学び、将来日本の為にも世界の為にも貢献する人材を送り出す事を願っています。今回の講演を企画し、生涯学習の糸口を作って下さった千葉支部の役員の皆様に深く感謝いたします

             総会に参加して
                                  16 年度中国留学生 程  龍

  平成 18 年 11 月 4 日、実践桜会千葉支部の東さんに誘われ、海浜幕張の有名なマンハッタンホテルで開いた桜会千葉支部の年度総会に参加しました。千葉に住んでいらっしゃる実践の卒業生の方々は大勢参加されました。そのうち、昭和 10 年代に卒業された方も三名もおられ、実に実践の悠久である歴史を感じました。元留学生である私も思わず、実践で勉強していたことに誇りを持っていました。
  会場は実践キャンパスと離れていますが、それにも関わらず、会議の進め方と雰囲気は非常に実践らしく、庄重であり、効率もよかったです。これこそ実践の精神をしっかりと実施できた結果だと思います。実践教育の特徴も実行力の育ちにあるのではないかと私は思います。
  総会の前半は年度報告と決議事項の発表であり、後半は講演会及び親睦会となっていました。国際交流センター長の影山先生は中国の女性革命代表の秋瑾と学祖下田先生の絆について講演を行いました。影山先生は博学でいらっしゃい、多くの視点から歴史を評価され、面白く、深いところまでお話をして下さいました。中国人である私にも初耳の話は多かったのです。
  最後の親睦会にはとても豪華な日本料理が運ばれてきました。美味しい和食を味わいながら、同席の卒業生の方と交流しました。特にそこで二年前実践で留学していた間お世話になった方々と再会でき、実に嬉しかったです。
  今回就職で日本へ来られたことはほとんど実践で身につけた語学力と知識のお陰だといっても過言ではありません。実践に感謝の気持ちはいっぱいです。これから長く日本で働くと思い、実践で学んだ精神を忘れず、しっかり頑張っていこうと思います。
  桜会の皆様、どうもありがとうございました。今後とも宜しくお願い致します。



総会講演会同窓会写真

   
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